- 第5章 - 西への拡大と各地域の特徴
「若者よ、西部を目指せ。そして、国と共に育て。」
19世紀、米国中西部で馬に引かせたコンバインでの小麦刈り入れ作業 (© Bettmann/CORBIS)
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統一の構築
1812年戦争は、ある意味で米国の第2の独立戦争であり、英国からの分離を確実なものとする出来事だった。この若い共和国が独立革命以降直面してきた深刻な問題の多くが、1812年戦争の終結とともに消滅した。合衆国憲法の下での国家統一は、自由と秩序をもたらした。国家債務は減少し、広大な大陸が開拓を待っており、平和と繁栄と社会の前進の可能性が国家の目の前に広がっていた。
通商が国家の統一を堅固なものにした。戦争による欠乏によって、多くの人々は米国が外国との競争に自力で立ち向かえるようになるまで、国内の製造業を保護することの重要性を痛感した。多くの人々が、経済的な独立は政治的な独立と同様に不可欠だと主張した。自給自足を促進するため、連邦議会の有力者だったケンタッキー州のヘンリー・クレーとサウスカロライナ州のジョン・C・カルフーンは、米国の産業発展を促すため輸出品を制限する保護主義政策を推進した。
関税の引き上げに絶好の時期が到来していた。バーモント州やオハイオ州の牧羊農家は、英国産羊毛の流入からの保護を求めた。ケンタッキー州では、地元でとれる麻を織って綿花用の袋を作る新興産業が、スコットランドの袋製造業からの脅威を感じていた。すでに鉄製錬の中心地となっていたペンシルベニア州ピッツバーグ市は、英国やスウェーデンの鉄供給業者に挑戦しようとしていた。1816年に制定された関税は、国内の製造業者に実質的な保護を提供できるような高率だった。
これに加えて、米国西部の人々は東部の都市や港湾と西部を結び、辺境の開拓地への移住を容易にする道路や運河の全国的な交通網を提唱した。しかし、連邦政府に国内の改善に関与するよう求めた彼らの要求は、ニューイングランドや南部の人々の反対にあって、実現しなかった。1916年に連邦補助道路法が可決されるまで、道路や運河は州政府の管轄下に置かれた。
この時期に、最高裁は連邦政府の立場を大きく強化するいくつかの判決を下した。熱心な連邦主義者だったバージニア州のジョン・マーシャルが、1801年に最高裁長官となり、1835年に死亡するまで長官を務めた。それまで弱い存在だった最高裁は、マーシャルの長官就任とともに、強力な法廷に変身し、連邦議会および大統領と同等の地位を占めるようになった。マーシャルは、一連の歴史的な判決によって最高裁の権限を確立するとともに、連邦政府を強化した。
マーシャルが草分けとなって、その後代々の最高裁判事は、合衆国憲法の意味と適用を形成する判決を下していくことになった。マーシャルが長い任期を終えるまでに、最高裁は明らかに憲法問題がからむ50件近い訴訟の判決を下した。マーシャルの最も有名な意見のひとつに、「マーベリー対マディソン事件」(1803年)の際のものがある。彼はこの中で、最高裁が連邦議会または州議会のあらゆる法律の合憲性を審査する権利を、決定的に確立した。また「マカロック対メリーランド事件」(1819年)では、合衆国憲法は、明示的に記された政府の権利以外の権利をも、暗黙のうちに政府に与えている、というハミルトンの理論を支持する大胆な判決を下した。
奴隷制度の拡大
それまでほとんど国民の注意を引かなかった奴隷制度が、国家的な課題として重要性を増し始めていた。共和国設立の初期に、奴隷を直ちに、あるいは徐々に解放することを北部諸州が定めた時、多くの指導者は奴隷制はいずれ消滅すると考えた。1786年に、ジョージ・ワシントンは、 「奴隷制が、ゆっくりと確実に、それとわからないうちに廃止されていくような」計画が採用されることを心から願う、と書いた。バージニア州のジェファーソン、マディソン、モンローをはじめとする南部の指導者たちも、同様の声明を出した。
1787年の北西部条例は、北西部準州での奴隷制を禁止した。その後1808年になって、国際奴隷貿易が廃止されたとき、多くの南部人は奴隷制は間もなく廃止されるだろうと考えていた。しかし、この予想は誤っていた。その後1世代を通じて、新たな経済要因によって奴隷制は1790年以前よりもはるかに大きな利益をもたらすようになり、南部は奴隷制の支持で固まっていった。
そうした経済要因の中でも最大のものは、南部の大規模な綿花栽培産業の台頭だった。新種の綿花の導入、そして1793年にイーライ・ホイットニーが、綿花から種子を取り除く綿繰り機を発明したことによって、綿花産業が促進された。同時に、産業革命によって繊維産業が大規模工業化したため、原料となる綿花の需要が大きく増えた。そして、1812年戦争の後、西部で新たな土地が開拓されたことによって、綿花栽培に利用できる土地が大幅に拡大された。綿花栽培は、東部沿岸諸州から、南部の大半、ミシシッピ州のデルタ地域、そしてテキサス州にまで、急速に広がっていった。
同じく労働集約型の作物であるサトウキビの栽培も、南部での奴隷制の拡大を促した。ルイジアナ州南東部の高温で豊かな土地は、サトウキビ栽培で利益を上げるために理想的な環境だった。1830年までには、ルイジアナ州は米国内の砂糖のおよそ半分を供給していた。さらに、タバコ農家も、奴隷制を伴いながら西方へ移動していった。
北部の自由社会と南部の奴隷制社会がいずれも西方へ拡大するに伴い、西部の準州を分割して作られる新しい各州の間で均衡を保つことが、政治的な得策と思われた。1818年にイリノイ州が連邦に加盟し、10州が奴隷州、11州が奴隷禁止州となったが、その後アラバマ州が奴隷州として加盟し、均衡状態が復活した。北部の方が人口増加が急速だったため、下院では北部諸州が明確な多数派を占めた。しかし上院では、北部と南部の均衡が保たれた。
1819年に、1万人の奴隷を持つミズーリ州が、連邦加盟を申請した。北部諸州は、ミズーリが自由州として加盟する以外は認めない、と反対し、抗議の嵐が全国に広がった。連邦議会は、一時こう着状態となったが、ヘンリー・クレーがいわゆる「ミズーリ協定」を妥協案として提唱した。メーン州が自由州として加盟すると同時に、ミズーリ州が奴隷州として加盟することを許す、というものである。また、連邦議会は、ルイジアナ買収で得られたミズーリ州の南の境界線より北の地域では、奴隷制を禁止した。当時、この議会の条項は、南部諸州にとっての勝利に見えた。「広大な米国の砂漠地帯」と呼ばれたこの地域が開拓される可能性は低いと思われていたためである。こうして論争は一時的に解決されたが、トマス・ジェファー ソンは、友人への書簡で次のように述べた。「この極めて重要な問題は、夜間の半鐘のように、私の目を覚まし、恐怖の念を起こさせた。私は、これを、連邦の弔鐘であると考えている。」
中南米とモンロー主義
19世紀初頭の何十年間かにわたって、中南米では革命が進行していた。英国の植民地が自由を得たときから、自由の概念が中南米の人々を奮起させた。1808年にナポレオンがスペインとポルトガルを征服したことが、中南米の人々に反乱を起こして立ち上がるきっかけを与えた。1822年までに、シモン・ボリバル、フランシスコ・ミランダ、ホセ・デ・サンマルティン、ミゲル・デ・ヒダルゴたちの有能な指導者の下で、南はアルゼンチンやチリから、北はメキシコまで、スペイン領アメリカの大半が独立を勝ち取っていた。
米国の人々は、欧州の支配から脱出するという自らの体験を再現するような中南米の出来事に強い関心を示した。中南米の独立運動は、米国民にとって、自治に対する信念を再確認させるものだった。1822年に、ジェームズ・モンロー大統領は、国民からの強い圧力を受けて、中南米の新興国家を承認する権限を背負わされ、間もなくそれらの諸国と公使を交換した。これによって、大統領は中南米諸国が欧州との関係を完全に絶ち切った真の独立国家であることを追認したのである。
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