2012年6月3日日曜日

西への拡大と各地域の特徴


- 第5章 -

西への拡大と各地域の特徴

「若者よ、西部を目指せ。そして、国と共に育て。」

19世紀、米国中西部で馬に引かせたコンバインでの小麦刈り入れ作業 (© Bettmann/CORBIS)

統一の構築

1812年戦争は、ある意味で米国の第2の独立戦争であり、英国からの分離を確実なものとする出来事だった。この若い共和国が独立革命以降直面してきた深刻な問題の多くが、1812年戦争の終結とともに消滅した。合衆国憲法の下での国家統一は、自由と秩序をもたらした。国家債務は減少し、広大な大陸が開拓を待っており、平和と繁栄と社会の前進の可能性が国家の目の前に広がっていた。

通商が国家の統一を堅固なものにした。戦争による欠乏によって、多くの人々は米国が外国との競争に自力で立ち向かえるようになるまで、国内の製造業を保護することの重要性を痛感した。多くの人々が、経済的な独立は政治的な独立と同様に不可欠だと主張した。自給自足を促進するため、連邦議会の有力者だったケンタッキー州のヘンリー・クレーとサウスカロライナ州のジョン・C・カルフーンは、米国の産業発展を促すため輸出品を制限する保護主義政策を推進した。

関税の引き上げに絶好の時期が到来していた。バーモント州やオハイオ州の牧羊農家は、英国産羊毛の流入からの保護を求めた。ケンタッキー州では、地元でとれる麻を織って綿花用の袋を作る新興産業が、スコットランドの袋製造業からの脅威を感じていた。すでに鉄製錬の中心地となっていたペンシルベニア州ピッツバーグ市は、英国やスウェーデンの鉄供給業者に挑戦しようとしていた。1816年に制定された関税は、国内の製造業者に実質的な保護を提供できるような高率だった。

これに加えて、米国西部の人々は東部の都市や港湾と西部を結び、辺境の開拓地への移住を容易にする道路や運河の全国的な交通網を提唱した。しかし、連邦政府に国内の改善に関与するよう求めた彼らの要求は、ニューイングランドや南部の人々の反対にあって、実現しなかった。1916年に連邦補助道路法が可決されるまで、道路や運河は州政府の管轄下に置かれた。

この時期に、最高裁は連邦政府の立場を大きく強化するいくつかの判決を下した。熱心な連邦主義者だったバージニア州のジョン・マーシャルが、1801年に最高裁長官となり、1835年に死亡するまで長官を務めた。それまで弱い存在だった最高裁は、マーシャルの長官就任とともに、強力な法廷に変身し、連邦議会および大統領と同等の地位を占めるようになった。マーシャルは、一連の歴史的な判決によって最高裁の権限を確立するとともに、連邦政府を強化した。

マーシャルが草分けとなって、その後代々の最高裁判事は、合衆国憲法の意味と適用を形成する判決を下していくことになった。マーシャルが長い任期を終えるまでに、最高裁は明らかに憲法問題がからむ50件近い訴訟の判決を下した。マーシャルの最も有名な意見のひとつに、「マーベリー対マディソン事件」(1803年)の際のものがある。彼はこの中で、最高裁が連邦議会または州議会のあらゆる法律の合憲性を審査する権利を、決定的に確立した。また「マカロック対メリーランド事件」(1819年)では、合衆国憲法は、明示的に記された政府の権利以外の権利をも、暗黙のうちに政府に与えている、というハミルトンの理論を支持する大胆な判決を下した。

奴隷制度の拡大

それまでほとんど国民の注意を引かなかった奴隷制度が、国家的な課題として重要性を増し始めていた。共和国設立の初期に、奴隷を直ちに、あるいは徐々に解放することを北部諸州が定めた時、多くの指導者は奴隷制はいずれ消滅すると考えた。1786年に、ジョージ・ワシントンは、 「奴隷制が、ゆっくりと確実に、それとわからないうちに廃止されていくような」計画が採用されることを心から願う、と書いた。バージニア州のジェファーソン、マディソン、モンローをはじめとする南部の指導者たちも、同様の声明を出した。

1787年の北西部条例は、北西部準州での奴隷制を禁止した。その後1808年になって、国際奴隷貿易が廃止されたとき、多くの南部人は奴隷制は間もなく廃止されるだろうと考えていた。しかし、この予想は誤っていた。その後1世代を通じて、新たな経済要因によって奴隷制は1790年以前よりもはるかに大きな利益をもたらすようになり、南部は奴隷制の支持で固まっていった。

そうした経済要因の中でも最大のものは、南部の大規模な綿花栽培産業の台頭だった。新種の綿花の導入、そして1793年にイーライ・ホイットニーが、綿花から種子を取り除く綿繰り機を発明したことによって、綿花産業が促進された。同時に、産業革命によって繊維産業が大規模工業化したため、原料となる綿花の需要が大きく増えた。そして、1812年戦争の後、西部で新たな土地が開拓されたことによって、綿花栽培に利用できる土地が大幅に拡大された。綿花栽培は、東部沿岸諸州から、南部の大半、ミシシッピ州のデルタ地域、そしてテキサス州にまで、急速に広がっていった。

同じく労働集約型の作物であるサトウキビの栽培も、南部での奴隷制の拡大を促した。ルイジアナ州南東部の高温で豊かな土地は、サトウキビ栽培で利益を上げるために理想的な環境だった。1830年までには、ルイジアナ州は米国内の砂糖のおよそ半分を供給していた。さらに、タバコ農家も、奴隷制を伴いながら西方へ移動していった。

北部の自由社会と南部の奴隷制社会がいずれも西方へ拡大するに伴い、西部の準州を分割して作られる新しい各州の間で均衡を保つことが、政治的な得策と思われた。1818年にイリノイ州が連邦に加盟し、10州が奴隷州、11州が奴隷禁止州となったが、その後アラバマ州が奴隷州として加盟し、均衡状態が復活した。北部の方が人口増加が急速だったため、下院では北部諸州が明確な多数派を占めた。しかし上院では、北部と南部の均衡が保たれた。

1819年に、1万人の奴隷を持つミズーリ州が、連邦加盟を申請した。北部諸州は、ミズーリが自由州として加盟する以外は認めない、と反対し、抗議の嵐が全国に広がった。連邦議会は、一時こう着状態となったが、ヘンリー・クレーがいわゆる「ミズーリ協定」を妥協案として提唱した。メーン州が自由州として加盟すると同時に、ミズーリ州が奴隷州として加盟することを許す、というものである。また、連邦議会は、ルイジアナ買収で得られたミズーリ州の南の境界線より北の地域では、奴隷制を禁止した。当時、この議会の条項は、南部諸州にとっての勝利に見えた。「広大な米国の砂漠地帯」と呼ばれたこの地域が開拓される可能性は低いと思われていたためである。こうして論争は一時的に解決されたが、トマス・ジェファー ソンは、友人への書簡で次のように述べた。「この極めて重要な問題は、夜間の半鐘のように、私の目を覚まし、恐怖の念を起こさせた。私は、これを、連邦の弔鐘であると考えている。」

中南米とモンロー主義

19世紀初頭の何十年間かにわたって、中南米では革命が進行していた。英国の植民地が自由を得たときから、自由の概念が中南米の人々を奮起させた。1808年にナポレオンがスペインとポルトガルを征服したことが、中南米の人々に反乱を起こして立ち上がるきっかけを与えた。1822年までに、シモン・ボリバル、フランシスコ・ミランダ、ホセ・デ・サンマルティン、ミゲル・デ・ヒダルゴたちの有能な指導者の下で、南はアルゼンチンやチリから、北はメキシコまで、スペイン領アメリカの大半が独立を勝ち取っていた。

米国の人々は、欧州の支配から脱出するという自らの体験を再現するような中南米の出来事に強い関心を示した。中南米の独立運動は、米国民にとって、自治に対する信念を再確認させるものだった。1822年に、ジェームズ・モンロー大統領は、国民からの強い圧力を受けて、中南米の新興国家を承認する権限を背負わされ、間もなくそれらの諸国と公使を交換した。これによって、大統領は中南米諸国が欧州との関係を完全に絶ち切った真の独立国家であることを追認したのである。


ペンシルバニア州の第二DUIの平均文は何ですか

ちょうどそのころ、ロシア、プロイセン、オーストリアが、革命に対する防護策として「神聖同盟」を結成した。ナポレオン後のフランスも参加した。この同盟は、大衆運動が君主制を脅かしている国に干渉することによって、革命の拡大を防ぐことを目指していた。こうした政策は、人民の自決という米国の原則とは正反対に位置するものだった。

神聖同盟の活動が旧世界にとどまっている限りは、米国が不安を感じることはなかった。しかし、同盟がスペインの旧植民地を同国に返還することを発表すると、米国民は大きな不安を抱いた。中南米との貿易が非常に重要なものになっていた。英国はそのような動きを阻止する決意を固めた。英国政府は、中南米に対する英米合同の保障を提唱したが、米国のジョン・クインシー・アダムズ国務長官は、次のように述べて、米国が単独で行動するようモンロー大統領を説得した。「英国の軍艦の後についていく小船になるよりも、ロシアやフランスに対して、自らの信条を明確に述べる方が、より率直であると同時に、より威厳がある。」

1823年12月、英国海軍が中南米を神聖同盟やフランスから守ることを認識した上で、モンロー大統領は、連邦議会への年次教書で、欧州による米州支配の拡大を一切拒否する「モンロー主義」を宣言し、次のように述べた。

アメリカ大陸は、……今後、いかなる欧州勢力によっても、いっそうの植民地化の対象として考えられることはない。 われわれは、彼らが自らの(政治)制度をこの半球のいかなる部分に対しても拡大しようとすることは、われわれの平和と安全にとってすべて危険であると見なすべきである。 欧州の大国の既存の植民地または属国に対して、われわれは干渉をしておらず、今後も干渉しない。しかし、独立を宣言し、独立を維持し、その独立をわれわれが……承認している政府に関しては、欧州の大国がそうした政府を抑圧するため、あるいはその他の手段でそうした政府の運命を支配するために介入することは、合衆国に対する非友好的な性向の表れと見なさざるを得ない。

モンロー主義は、中南米の新興独立共和国との連帯の精神を表したものだった。そして、これらの諸国もまた多くの場合、合衆国憲法を自国の新憲法の模範とすることによって、合衆国に対する政治的な親近感を示したのである。

派閥主義と政党

国内的には、モンロー政権時代(1817~25年)は、「好感の時代」と呼ばれた。これは連邦党が国家的勢力としては崩壊し、共和党が政治的に勝利したことを表すものだった。とはいえ、この時期は、派閥間および地域間の激しい対立の時期でもあった。

連邦党の終焉によって、短期間、派閥政治が続き、連邦議会の党員集会で大統領候補を指名するという慣行に混乱をきたした。しばらくは、州議会が候補者を指名した。1824年には、テネシー州とペンシルベニア州が、アンドルー・ジャクソンを大統領候補に、またサウスカロライナ州のジョン・C・カルフーン上院議員を副大統領候補に指名した。ケンタッキー州はヘンリー・クレー下院議長を、またマサチューセッツ州は、第2代大統領ジョン・アダムズの息子のジョン・クインシー・アダムズ国務長官を、それぞれ大統領候補に指名した。非民主的だとして広く愚弄されていた連邦議会の党員集会は、ウィリアム・クローフォード財務長官を候補に指名した。

大統領候補の人柄と地域性が、選挙結果を大きく左右した。ニューイングランドとニューヨーク州の大半では、アダムズが選挙人投票で勝利した。ケンタッキー、オハイオ、ミズーリの各州ではクレーが、南東部とイリノイ、インディアナ、両カロライナ、ペンシルベニア、メリーランド、ニュージャージーの各州ではジャクソンが、そしてバージニア、ジョージア、デラウェアの各州ではクローフォードがそれぞれ勝利した。どの候補者も選挙人団の過半数票を得ることができなかったため、合衆国憲法の規定に従い、選挙結果の決定は下院に委ねられた。下院で最大の有力者だったクレーがアダムズを支持し、アダムズが大統領となった。

アダムズ政権時代に、新たな政党の色分けが生じた。旧連邦党を含むアダムズ支持派は、拡張する国家の発展に強力な役割を果たす連邦政府を支持する立場を象徴する名称として、「国民共和党」を名乗った。アダムズは、誠実かつ効率的な統治を実行したが、人気のある大統領ではなかった。彼は、全国的な道路・運河網を導入しようとしたが、これは失敗に終わった。冷ややかで知的な気質のアダムズは、すぐ友人になれるタイプではなかった。対照的に、ジャクソンは大衆に多大な人気があり、強力な政治組織を持っていた。ジャクソン支持派は合体して「民主党」を創立し、ジェファーソンの民主共和党の直系を自認した。そして、概して小規模で分散化した政府を提唱した。彼らは、強力な反アダムズ活動を開始し、アダムズ� ��統領がクレーを国務長官に指名したことを、「腐敗した取引」だと非難した。1828年の大統領選挙では、ジャクソンが圧倒的にアダムズを破って当選した。

テネシー州出身の政治家であり、南部の辺境地域でのアメリカ原住民との戦いの闘士であり、そして1812年のニューオーリンズの戦いで英雄となったジャクソンは、「一般大衆」を支持基盤としていた。彼は、大衆民主主義の台頭の波に乗って、大統領に就任した。1828年の大統領選挙は、投票参加者の拡大に向かう動きにおけるひとつの出発点となった。それまでに、ほとんどの州は、白人男性全員に投票権を与えるか、または有権者の土地所有の要件を最小限に抑えるようになっていた。1824年には、6州で、依然として州議会が選挙人団を選出していたが、1828年までには、デラウェアとサウスカロライナの2州を除く全州で、大統領選挙人は一般投票で選ばれるようになっていた。こうした事態の進展は一般国民が統治するべきであり 、従来のエリート層による統治は終わりを告げた、という考え方が広まったことの産物だった。

無効宣言の危機

ジャクソン大統領は、第1期目の終盤に、保護関税の問題をめぐってサウスカロライナ州と対決することを余儀なくされた。同州は、台頭する深南部の綿花産出州の中でも、最も重要な州であった。サウスカロライナ州の商業や農業の関係者は、1828年の関税法を「忌むべき関税」と呼び、ジャクソンが大統領の権限によってこの法律を修正することを望んだ。彼らの見解によると、関税による保護の恩恵はすべて北部の製造業者に流れ、農業州であるサウスカロライナはさらに貧困化していた。1828年に、同州の指導的な政治家で、1832年に辞任するまでジャクソン政権の副大統領を務めたジョン・C・カルフーンが、『サウスカロライナの主張と抗議(South Carolina Exposition and Protest)』を著し、その中で、各州には抑圧的な連邦法を無効とする権利がある、と主張した。

1832年に、連邦議会が、1828年に定められた関税率を引き下げる法案を可決し、ジャクソンがこれに署名したが、ほとんどのサウスカロライナ州民は、これだけでは満足しなかった。同州は、1828年および1832年に定められた関税を、いずれも同州内では無効とする「連邦法無効宣言」を採択した。またサウスカロライナ州議会は、軍隊招集の権限と兵器調達に関する法律など、無効宣言を実施するために必要な法律を可決した。無効化は、以前から、連邦政府による過剰と思われる行為に対する抗議の主題となっていた。ジェファーソンとマディソンが、外国人法と動乱法に抗議するために、1798年のケンタッキーおよびバージニア決議で、無効宣言を提案していた。1814年のハートフォード会議では、1812年戦争への抗議として無効宣言が発動 された。しかし、州が実際に無効化を実施しようとした例は、それまで一度もなかったのである。若い国家は、かつてない大きな危機に直面していた。

サウスカロライナ州からの脅威に対し、ジャクソン大統領は1832年11月、海軍の小型艦艇7隻と軍艦1隻を同州チャールストンに派遣した。12月10日、ジャクソンは、無効論者に対して、明確な声明を発した。大統領は、サウスカロライナ州は「謀反と反逆の瀬戸際」に立っていると言明し、州民に、連邦への忠誠を再確認するよう訴えた。また彼は、必要ならば自ら米国の軍隊を率いて法を執行する意志があることを明らかにした。


ビーバーフォールズ消防署

連邦議会で関税の問題が再び取り上げられたとき、ジャクソン大統領の政敵だったヘンリー・クレー上院議員が妥協案を提出した。クレーは保護政策の強力な支持者だったが、熱心な連邦主義者でもあった。1833年に迅速に可決されたクレーの関税法案は、輸入品の価格の20%を超える関税を毎年引き下げ、1842年までには、すべての品目の関税を1816年当時の妥当な関税率とすることを定めていた。同時に連邦議会は、法執行のために軍事力を使う権限を大統領に与える強制法を可決した。

サウスカロライナ州は、南部諸州の支持を期待したが、実際には孤立していた。(サウスカロライナ州を支持する可能性が最も高いとされたジョージア州政府は、州内からアメリカ原住民を退去させるために米国の軍隊の出動を求め、これを与えられた。)結局、サウスカロライナ州は無効条例を撤回したが、双方とも勝利を宣言した。ジャクソンは、強力に連邦を守った。しかし、サウスカロライナ州も、抵抗を示すことによって、要求事項の多くを実現させ、ひとつの州が連邦議会に対してその意志を強硬に押し通せることを証明した。

銀行紛争

連邦法無効宣言の危機には内戦の種子が含まれていたが、政治的な問題としては、国家の中央銀行、すなわち第2の合衆国銀行の存続をめぐる紛争ほど深刻ではなかった。1791年にアレギザンダー・ハミルトンの指導の下に設立された最初の合衆国銀行は、20年間の認可を受けていた。この銀行は政府が株式の一部を保有していたが、英国銀行や、当時のその他の中央銀行と同様に、民間の法人であり、その利益は株主に配分されていた。合衆国銀行の公的な機能は、政府収入の預託機関となること、政府に短期の融資をすること、そして何よりも、州の認定した銀行が兌換能力を超えて発行した紙幣を額面価額で受け取ることを拒否することによって、健全な通貨を確立することだった。

北東部の実業・経済界にとって、中央銀行は慎重な通貨政策の執行者として必要な存在だったが、南部および西部の人々は、当初から、自己の繁栄と地域の発展には十分な通貨と信用が必要であると考え、中央銀行の存在を嫌った。ジェファーソンとマディソンの共和党は、中央銀行の合憲性に疑問を抱いた。合衆国銀行の認可は1811年に期限切れで失効し、更新されなかった。

その後数年間は、各州の州認定銀行が銀行業を支配し、通貨を過剰に発行して、多大な混乱を生じさせインフレを促進した。州銀行には、信頼できる通貨を提供する能力のないことがますます明らかになった。1816年に、第2合衆国銀行が設立された。これは最初の合衆国銀行と同様の機関で、認可期間も同じ20年間だった。 第2の合衆国銀行は、当初から新しい州や準州では人気がなかった。特に、州や地方の銀行家は、合衆国銀行が全国の信用と通貨に関する業務をほぼ独占していたことに不満を抱いていた。だが、全米各地のあまり裕福でない人々からも、合衆国銀行は少数の富裕層の利益を代表していると思われて、反感を買っていた。

概して、合衆国銀行は順調に経営され、価値あるサービスを提供した。しかし、ジャクソン大統領は長年にわたって、共和党特有の金融機関に対する不信感を抱いていた。一般国民の擁護者として選出されたジャクソンは、貴族的な合衆国銀行総裁ニコラス・ビドルを、与しやすい攻撃目標だと感じていた。合衆国銀行支持派が連邦議会で、早期の認可更新を推進しようとした時、ジャクソンは、独占と特権を糾弾する辛らつな意見を述べて、拒否権を行使した。拒否権を覆そうとする試みも、失敗に終わった。

それに続いて行われた大統領選では、選挙運動を通じて銀行問題をめぐる根本的な意見対立が明らかになった。商工業および金融業界で地歩を固めた人たちは、健全な通貨を支持した。金儲けに熱心な地方の銀行家や起業家は、通貨の供給増と低金利を望んだ。その他の債務者、とりわけ農民たちも同じ気持ちだった。ジャクソンとその支持派は、中央銀行を「怪物」呼ばわりした。そして、対立候補のヘンリー・クレーに楽勝した。

ジャクソン大統領は、この勝利によって、中央銀行を二度と復活しないように叩きつぶすための国民の信任を得たと考えた。1833年9月、彼は、合衆国銀行に政府の資金を新たに預金することを停止すること、そしてすでに存在する預金を徐々に引き出すことを命令した。政府はいくつかの州銀行を選んで預金を行った。反対派は、これらの銀行を「ペット・バンク(お気に入り銀行)」と呼んだ。

その後、米国は1世代にわたり、比較的規制の緩い州銀行制度の下で、何とかしのいでいくことになった。このために低利金融の西方への拡張が推進される一方で、定期的な金融不安に悩まされ続けた。南北戦争中に、米国は、地方と地域の銀行の国家認定制度を開始した。しかし、米国が連邦準備制度を設立して中央銀行制度を再び導入したのは、1913年になってからだった。

ホイッグ党、民主党、そして「ノウナッシング」党

ジャクソンの政敵たちは、主としてジャクソンに反対するという点だけで団結し、最終的にはホイッグ党と呼ばれる政党にまとまった。「ホイッグ」とは、ジャクソンの「君主的支配」に反対するところから、英国のホイッグ党にちなんで付けられた名称である。ホイッグ党が組織されたのは、1832年の大統領選挙運動の直後だったが、党内で意見の相違が調整され、党綱領が作成されたのは、それから10年以上後のことだった。ホイッグ党は主として、党内で最も優れた政治家だったヘンリー・クレーとダニエル・ウェブスターの魅力によって、党員の団結を固めていった。しかし、1836年の大統領選挙では、まだ党内があまりにも分裂していたため、ホイッグ党として1人の候補者の下にまとまることできなかった。この大統領選では、 ジャクソンの副大統領だったニューヨーク州のマーティン・バンビューレンが当選した。

しかし、バンビューレン大統領の美点は、経済不況の発生と、前任者の並外れた個性の陰に隠れてしまった。ジャクソンは、行動のひとつひとつが、人をひきつける指導力と芝居じみた華やかさを伴っていたが、バンビューレンにはそうした素質がなかったため、彼の公的活動が国民の熱意を喚起することはなかった。1840年の大統領選は、米国が厳しい時代を迎え、国民が低賃金に苦しんでいる中で行われ、民主党は守勢に立たされた。

ホイッグ党は、オハイオ州のウィリアム・ヘンリー・ハリソンを大統領候補に立てた。ハリソンは、アメリカ原住民との戦いと1812年戦争の英雄として非常に人気があった。彼はジャクソンと同様に、民主的な西部の代表として抜擢されたのである。ハリソンの副大統領候補は、バージニア州のジョン・タイラーだった。州権と低関税に関するタイラーの意見は、南部で広く支持されていた。そして、ハリソンは圧勝した。

ところが、68歳のハリソン9代大統領は、就任後1カ月もたたないうちに急死し、タイラーが大統領に就任した。タイラーの信念は、連邦議会で依然として影響力のあったクレーやウェブスターの考え方とは大きな隔たりがあった。その結果、新大統領と、彼を選出した政党との間に断絶が生じることになった。タイラー大統領には、大統領が死亡した場合、副大統領が完全な権限を与えられて残りの任期を引き継ぐ、という前例を確立したこと以外に、ほとんど実績はなかった。

このほかにも、米国民の間には、より複雑な意見の相違があった。19世紀前半に、主にアイルランド人とドイツ人の大勢のカトリック教徒が移民として米国に渡ってきたことは、米国生まれのプロテスタントの米国人に反発を誘発した。移民は、奇妙な新しい慣習と宗教上のしきたりを米国の地にもたらした。また、東海岸の各都市で、米国生まれの米国人と職を求めて競争した。1820年代と30年代に、白人男性全員に普通選挙権が与えられるようになったため、移民の政治的影響力は増大した。落選した貴族出身の政治家たちは、権力を失ったことを移民のせいにした。カトリック教会が禁酒運動を支持しなかったことから、ローマ法王庁は酒を使って米国を堕落させようとしている、という非難の声が聞かれるようになった。

この時期に続々と誕生した移民排斥主義の組織の中で最も重要なものは、1849年に創設された「星条旗騎士団」という秘密組織だった。この組織は、メンバーが身分を明かすことを拒否したため、「ノウナッシング(何も知らない)」党と呼ばれるようになった。同党は、数年のうちに、かなりの政治的権力を持つ全国組織に成長した。


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ノウナッシング党は、移民の帰化に要する期間を5年から21年に延長することを提唱した。また、外国生まれの者やカトリック教徒を公職から排除しようとした。1855年には、ノウナッシング党がニューヨーク・マサチューセッツ両州の議会で多数派を占め、そのころには連邦議会にも同党とつながりのある議員がおよそ90人いた。しかし、それが頂点だった。間もなく、奴隷制の延長をめぐって北部と南部の間で危機が高まり、党内に致命的な分裂が生じた。そして19世紀の第2四半期に米国を支配したホイッグ党と民主党の間の論争が蒸し返され、ノウナッシング党を消耗させていったのである。

改革への動き

ジャクソンの大統領選出で例証されるような、政治における民主主義的な激変は、すべての国民の権利と機会の拡大を目指す、米国の長期にわたる努力のひとつの側面にすぎない。別の側面は、主として熟練・半熟練労働者による労働組合の誕生である。1835年に、ペンシルベニア州フィラデルフィア市の労働者たちが、古くから「日の出から日の入りまで」とされていた1日の労働時間を、10時間に短縮することに成功した。1860年までには、この新たな労働時間の規定が数州で法制化され、一般に認められた基準となった。

選挙権の拡大は、新たな教育の概念をすでに生んでいた。各地の先見の明のある政治家は、普通選挙には、教育を受けた読み書きのできる選挙民が必要であることを理解していた。労働者の組織は、すべての子どもたちを受け入れる、税金によって支えられた無料の学校を要求した。徐々に、そのような無料の教育を実施する法律が、州から州へと制定されていった。中でも、マサチューセッツ州のホレス・マンの指導力は大きな効果を発揮し、北部では公立学校制度が普及した。しかしながら、他の地域では公教育を求める闘いが何年も続いた。

この時期に発生したもうひとつの重要な運動は、酒類の販売と消費に反対する禁酒運動だった。この運動は、宗教的な信条、酒が労働力に及ぼす悪影響、大量飲酒者による女性や子どもに対する虐待など、さまざまな懸念や動機に由来するものだった。1826年に、ボストン市の牧師たちが、禁酒促進協会を設立した。7年後には、同協会がフィラデルフィア市で全国大会を開き、米国禁酒連合が結成された。この連合は、あらゆるアルコール飲料の禁止を求め、各州議会にそうした飲料の製造・販売を禁止するよう圧力をかけた。1855年までに、13州がこれを立法化したが、これらの法律は後に法廷で異議を申し立てられ、ニューイングランド北部だけで継続された。しかし、1830年から1860年までの間に、禁酒運動により、米国の国民1人当� ��りの酒類消費量は減少した。

監獄の問題や、精神障害者のケアの問題に取り組んだ改革論者もいた。懲罰を強調する監獄を、罪人の更正を行う刑務所に変える努力がなされた。マサチューセッツ州では、ドロシア・ディックスが、悲惨な状態の救貧院や監獄に閉じ込められていた精神障害者を救済する運動を主導した。彼女は、マサチューセッツ州での改善に成功した後、南部にも運動を拡大した。1845年から1852年までの間に、南部の9州が精神病院を設立した。

女性の権利

これらの社会改革によって、多くの女性は自分たちが社会で不平等な地位に置かれていることを認識するようになった。植民地時代から、未婚の女性には男性と同様の権利の多くが与えられていたが、慣習によって女性は早く結婚することを求められた。そして女性は、結婚と同時に、法律的観点からは、独立した個人としての存在を事実上失った。女性は投票が許されていなかった。17世紀および18世紀の女性の教育は、主として読書、作文、音楽、ダンス、裁縫に限られていた。

米国の女性が目覚めるきっかけとなったのは、スコットランドの講演者兼ジャーナリスト、フランセス・ライトの訪米だった。ライトは、1820年代を通じて、全米で女性の権利を公然と推進した。女性が公共の場で話すことがしばしば禁じられていた時代に、彼女は、自分の意見をはっきりと述べただけでなく、女性が避妊や離婚に関する情報を求める権利を支持して、聴衆にショックを与えた。1840年代までに、米国の女権拡張運動が出現した。その先頭に立ったのが、エリザベス・キャディ・スタントンだった。

1848年に、キャディ・スタントンと仲間のルクレシア・モットが、ニューヨーク州セネカフォールズ市で、世界史上初の女権拡張会議を開催した。代表団は、「所感宣言」を起草し、法に基づく男性との平等、投票権、そして教育や雇用における機会均等を要求した。これらの決議は、ひとつの例外を除いて満場一致で採択された。その例外とは、女性の投票権に関する決議だったが、黒人の奴隷廃止論者、フレデリック・ダグラスによる熱のこもった演説の結果、過半数で採択された。

セネカフォールズの会議で、キャディ・スタントンは、女権推進の雄弁な演説家・著述家として、全国的な知名度を得た。彼女は、早い時期から、投票権がなければ女性は決して男性と同等の地位には立てないことを認識していた。キャディ・スタントンは、奴隷廃止論者のウィリアム・ロイド・ギャリソンを手本に、成功のカギは政党活動ではなく、世論を変えることである、と考えた。セネカフォールズの会議は、その後の変化の触媒となった。間もなく、他にも女権拡張会議が開かれ、他の女性たちが、女性の政治的・社会的平等を求める運動の先頭に立つようになった。

同じく1848年に、ポーランド人移民のアーネスティン・ローズが中心となって、ニューヨーク州で、既婚女性が自分の名義で財産を所有し続ける権利を認める法律を可決させた。この既婚女性財産法は、この種の法律としては全米で最も初期に定められたもののひとつであり、他州の議会が同様の法律を制定するきっかけとなった。

1869年に、エリザベス・キャディ・スタントンと、同じく女権運動の指導者だったスーザン・B・アンソニーが、女性の参政権を認める憲法修正を推進するために、全米婦人参政権協会(NWSA)を設立した。この2人は、女権拡張運動の最も雄弁な推進者となった。後にキャディ・スタントンは、2人のパートナーシップについて、「私が雷を作り、彼女がそれを落とした」と語った。

西方への進出

辺境地域は米国社会の形成に大きな役割を果たした。大西洋岸の各地域の状況は、新しい土地への移住を促進するものだった。貧しい土壌で多量の収穫が望めないニューイングランド地方の人々は、沿岸地帯の農場や村を後にして、大陸内地の豊かな土地へ、次々と移住していった。南北カロライナやバージニア州の僻地の住民は、沿岸の市場へ通じる道路や運河がないために不利な状況に置かれていたこと、また沿岸地帯の農園主の政治的優勢に憤慨していたことなどから、やはり西部へ移動していった。1800年までには、ミシシッピ川およびオハイオ川の流域が、広大な辺境地域となっていた。「Hi-o, away we go, floating down the river on the O-hi-o(ハイオー、どんどん行こう、オハイオ川を流れて下ろう)」という歌が、大勢の移住者に愛唱された。

19世紀初めの西部への人口流入によって、古い準州が分割され、新たな境界線が引かれた。新しい州が連邦に加盟するに従い、ミシシッピ川以東の地域の政治地図が安定していった。1816年から1821年までの間に、インディアナ、イリノイ、メーン(いずれも自由州)と、ミシシッピ、アラバマ、ミズーリ(いずれも奴隷州)の6州が新設された。 入植当初の辺境地域は、欧州とのつながりが緊密だったが、第2の辺境地域は、沿岸地帯の入植地とのつながりが強かった。しかし、ミシシッピ川流域は、独立した存在であり、そこに住む人々の目は、東部ではなく西部に向いていたのである。

辺境の開拓者には、さまざまな人たちがいた。ある英国人旅行者は、次のように書いている。「非常に粗末な小屋に住む、大胆で頑健な男たちである。……彼らは、無骨だが、人を温かく迎えてくれる。見知らぬ人にも親切で、正直であり、信頼できる。トウモロコシやカボチャを栽培し、ブタを育て、時にはウシを1、2頭飼っている。……しかし、彼らの主な生活手段は、ライフルである。」彼らは、オノ、わな、釣り糸を使いこなし、道を切り開き、最初の丸太小屋を建て、アメリカ原住民と対決して、その土地を占領していった。


さらに多くの開拓者が荒野に入っていくにつれて、狩猟だけでなく農耕を行う者も増えた。掘っ立て小屋に代わって、ガラス窓、煙突、そして複数の部屋のある、住み心地の良いログハウス(丸太造りの家)が建てられるようになった。また、泉に代わって、井戸が使われるようになった。勤勉な開拓者たちは、木を切り倒して急速に土地を切り開き、木材を燃やして(灰から)炭酸カリウムを作り、切り株は腐朽させた。自家用の穀物、野菜、果物を育て、森でシカや野生のシチメンチョウを獲り、ハチミツを集め、近くの川で魚を釣り、ウシやブタを飼った。土地投機家が広大な土地を安く買い占め、所有地の価格が上昇すると売却し、さらに西へ進出していった。

農民に続いて、医師、弁護士、商店主、編集者、牧師、機械工、そして政治家といった人々も、間もなく西部へ移動した。しかし、西部の堅固な基盤となったのは農民だった。彼らは、開拓した土地に定住する意志を持ち、子どもたちにもその土地に残ることを望んだ。彼らは大きな納屋と、レンガ造りまたは木造の住居を建てた。そして、家畜を改良し、耕作の技術を高め、生産性の高い種子をまいた。製粉所、製材工場、蒸留所などを建てる農家もあった。また、整備された道路を敷設し、教会や学校を設立した。わずか数年の間に、信じられないほどの変容が達成された。例えば、イリノイ州シカゴ市は、1830年には、単に砦のある交易の村で、特に将来性もなかったが、当初の開拓者たちがまだ生きているうちに、全米有数の裕福 な大都市となっていた。

農場は容易に手に入れることができた。1820年以降、公有地は、ほぼ半ヘクタール当たり1ドル25セントで購入することができた。そして、1862年の自営農地法によって、公有地に住み、その土地を改良する者には、その土地の所有権が与えられることになった。土地を耕すための道具の入手も容易だった。インディアナ州の新聞記者ジョン・スーレが述べ、「ニューヨーク・トリビューン」紙の編集者ホレス・グリーリーが広く普及させた言葉にあるように、若者が「西部を目指し、国と共に育つ」ことが可能な時代だった。

メキシコの領土だったテキサスへの移民を除けば、農業の辺境地域の西方への進出は、1840年以後までは、ミズーリ川を越えて、ルイジアナ購入で得られた広大な西部地域に至ることはなかった。1819年に、米国は、米国民の対スペイン請求権500万ドルを肩代わりすることと引き換えに、スペインからフロリダを買収するとともに、極西部のオレゴンの所有権もスペインから買収した。そのころ、極西部では毛皮貿易が非常に盛んになっていたが、それは毛皮の価値だけにとどまらない意義を持つことになった。フランス人がミシシッピ川流域を探検した初期のころと同様、ミシシッピ川以西においても、貿易商人は開拓者に先立って道を切り開く役目を果たした。フランス人およびスコットランド系アイルランド人の猟師たちは、大きな� �やその支流を探検し、ロッキー山脈やシエラ山脈を越える道を発見することによって、1840年代における陸路の進出と、その後の内陸部の開拓を可能にしたのである。

全体としては、米国の成長は途方もなく大きいものだった。1812年から1852年までの間に、米国の人口は、725万人から2300万人以上に増えた。また、開拓可能な土地は440万平方キロメートルから、780万平方キロメートルに増えた。この増加分は、ほぼ西ヨーロッパの総面積に匹敵するものだった。しかし、地域的な相違に基づく基本的な対立は解決されておらず、これが爆発して1860年代の南北戦争の勃発につながった。また当然のことながら、西部へ進出した開拓者たちは、もともとその土地に住んでいたアメリカ原住民との紛争に巻き込まれることになった。

19世紀初頭に、こうした紛争に関連して最も著名な存在となったのは、後に「西部人」として初めて大統領となるアンドルー・ジャクソンだった。1812年戦争の最中に、テネシー州民兵軍を指揮していたジャクソンは、アラバマ州南部へ派遣され、クリーク・インディアンの蜂起を容赦なく鎮圧した。間もなく、クリーク族は所有地の3分の2を米国に譲渡した。後にジャクソンは、スペイン領フロリダに安住していたセミノール族の諸集団を追い払った。

1820年代に、モンロー大統領の下で陸軍長官を務めていたジョン・C・カルフーンは、旧南西部に残っていたインディアンの部族を追い出し、ミシシッピ川以西に再定住させる政策をとった。ジャクソン大統領は、この方針を継続した。1830年に連邦議会は、インディアン強制移住法を可決し、東部のインディアン諸部族をミシシッピ川以西に移動させる費用を提供することを定めた。1834年には、現在のオクラホマ州に、アメリカ原住民の特別居住地区が作られた。ジャクソン大統領の2期にわたる在職中に、諸部族は合わせて、何百万ヘクタールもの土地を連邦政府に譲渡する、合わせて94の条約に署名した。そして何十もの部族が先祖代々住んだ土地から撤退することになった。

この不幸な歴史の中でも最も悲惨な1章は、チェロキー族に関するものだった。ノースカロライナ州西部とジョージア州に居住していたチェロキー族は、1791年の条約によって、その土地の所有を保障されていた。チェロキー族は、東部有数の進歩的な部族だったが、1829年に居住地内で金が発見されると、追い出されるのは必至となった。チェロキー族は1838年に、オクラホマへの長く過酷な徒歩の旅を強制され、その途中で大勢が病気や食糧不足で死亡した。この旅は後に,「涙の道」と呼ばれるようになった。

辺境、「西部」、そして米国の体験

フロンティア(辺境地帯)とは、入植された土地と未開拓の土地の境界のことであり、最初のフロンティアは、ジェームズタウンとプリマスロックだった。そこから、米国の辺境は300年近くにわたり、森林と荒野の平原を西へ前進し続けた。そして、1890年に行われた10年ごとの国勢調査で、もはや米国にはこれといった辺境地域がなくなったことが明らかになった。

当時、多くの人々は、長い時代が幕を閉じたと考えた。すなわち米国は、英国文明のいくつかの砦として苦闘していた存在から、独自性を備えた巨大な独立国家に成長したのである。人々がこの大陸を征服していく過程で絶え間なく繰り返された、移住とその後の開発の体験が、この国の発展における決定的な要素だったことは、想像に難くなかった。

1893年に、歴史学者フレデリック・ジャクソン・ターナーは、辺境地域の存在によって、米国は単なる欧州の延長以上のものとなったという、当時広く支持されていた意見を述べた。米国は、欧州に比べるとおそらくより荒削りであるが、同時に、より実際的、活動的、個人主義的、そして民主的な文化を持つ国家を築いていた。米国の広大な「自由の天地」の存在は、土地所有者の国家を作り、都市部や開拓の進んだ地域の不満に「安全弁」を提供した。ターナーの分析は、辺境を失った米国が、欧州の疾患と考えられていた階層的な社会制度、階級闘争、そして機会の減少へと不吉にも傾いていくことを暗示していた。

それから100年以上を経た現在も、学者たちは、米国の歴史における辺境地域の意義について議論を続けている。フロンティアが、ターナーが示唆したような多大な重要性を持つと考える学者は少ない。辺境地域の消滅が悲惨な結果をもたらしたとも思えない。一部には、ターナーの主張は、メキシコ征服戦争、アメリカ原住民の諸部族に対する大量虐殺に近い行為、そして自然環境の略奪などに代表される、血なまぐさく野蛮な過程を美化し称賛するものに過ぎない、といったさらに進んだ意見も出ている。彼らによると、辺境地域の体験に共通する要素は、苦難と挫折だった。

しかし、3世紀に及ぶ西部への進出が、米国の国民性に影響を及ぼさなかったとは考えにくい。フランスの知識人アレクシス・ド・トックビルのような外国の有識者も米国西部に魅せられていたと思われる。事実、最後の辺境地域となった、テキサス州から、北のカナダ国境まで広がる地域は、今日でも米国民から「西部」と呼ばれていて、依然として個人主義と民主主義と可能性という理想が米国の他地域よりもよく見えるという特徴を持っているように思える。また、外国の人々が、「アメリカ」という言葉を聞いてまず思い浮かべるのが、最後の辺境地域を象徴する存在である「カウボーイ」であることも、ひとつの証拠になるかもしれない。



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