2012年4月26日木曜日

世界恐慌と軍国主義


<1>世界恐慌とニュー・ディール トップ

(1)世界恐慌
*世界恐慌の原因
・20年代後半、過剰生産(ヨーロッパ経済の復興、日本の工業化)
・米の高関税政策、国際貿易不活発、金の米への遍在、米欧の国際収支不均衡
・取引機構の肥大化、金融・工業・商業・農業まで恐慌が拡大
1929・10・24 「暗黒の木曜日」、NYウォール街での株式相場の大暴落
1929・10・29 「悲劇の火曜日」、株価再暴落、株式取引所の機能停止
・恐慌は全産業に拡大、工業生産37%減(1929-32)、物価下落、企業倒産、銀行破産4500、失業者(1930年30万−1933年150万)、農民暴動
1930夏 恐慌がヨーロッパに拡大、大手銀行・国立銀行の倒産が相次ぐ
� �独、オは米資本援助に依存、多くの銀行が倒産(1931・5 クレディット・アンシュタルト銀行破産<オ>、1931・7 ダルムシュタット国立銀行支払停止<独>)
1931・9 英、金本位制停止

(2)アメリカ合衆国 トップ
*フーヴァー大統領
・資本主義の自然回復力を信頼、自由放任主義を継続
1931 フーヴァー・モラトリアム(戦債・賠償の1年間支払猶予)
・英仏:保護関税、本国と植民地による閉鎖的なブロック経済(持てる国)
・独伊日:有力な植民地を持たず、軍事体制強化、広域経済圏の確立を計るため近隣諸国への侵略的傾向を強化

*フランクリン・ローズヴェルト(民主党 任期1933-45)FDR
1932 フランクリン・ローズヴェルト(民主党 任期1933-45):ニュー� ��ィール政策を掲げて当選
・3R(救済Relief、復興Recovery、改革Reform)
・金融と通貨の統制、農民の救済、企業活動の調整と促進、労働者の諸権利の確立、社会保障制度の実施による失業者の救済
・政府による金融・生産・物価の強力な統制、資本主義への修正、革新的知識人の参加

<ニューディール政策>
(1)全国産業復興法(National Industrial Act、NIRA、1933)
・企業間の過当競争を抑制するため生産の制限・価格の調整、労働者の団体契約権・最低賃金制・最高労働時間により労働者保護、購買力の向上を図る、全国復興局・証券取引委員会の設置
・最高裁は違憲とする

(2)農業調整法(AAA、1933)
・生産過剰の農作物(小麦・とうもろこし・綿花)の作付け面積の制限、農産物価格高、農産物供給過剰防止、過剰農作物の政府買い上げ、価格引き下げによる購買力回復
・最高裁はこれを違憲としたため、新農業調整法(1936)を制定


ゴズリンは誰ですか?

(3)その他
・TVA(テネシー渓谷開発公社 1933):公共事業、開発や失業救済、水力発電計画、土地改良
・金本位制離脱(1933、1934・1)、インフレ政策、輸出の促進
・ワグナー法(全国労働関係法 1935):上院議員ロバート・ワグナー、最低賃金、最高労働時間、労働者の団結権、団体交渉権、不当解雇の禁止
(1947 タフト・ハーレー法で骨抜きにされる)
・社会保険法(1935):失業保険、老年年金、退職金などを合衆国政府が支給
1938 CIO(産業別組織会議):J・ルイスが指導、大量生産産業の未熟練労働者、NDを支持、AFLから分離(1955 AFLとCIOは合同)、炭鉱夫・衣服・婦人労働者の産業別8労働組合、鉄鋼・自動 車なども組織化

*修正資本主義
1936 ケインズ「雇用・利子及び貨幣の一般理論」:完全雇用の実現には国家による公共投資が必要、自由主義経済への国家の計画性

*金本位制から管理通貨制へ
・銀行券(紙幣)の兌換停止、各国政府が経済状況に応じて通貨の発行領を管理調節する通貨制度、銀行券の金への兌換停止、金の中央銀行への集中、公開市場操作や公定歩合政策など財政政策が可能になる

*外交
1934 ソ連を承認
1935 中立法:孤立主義的傾向
1934 フィリピン独立を約束
1933 第7回パン・アメリカ会議(モンテビデオ会議):国務長官ハルが善隣外交を表明、互恵的関税引き下げ
1938 第8回パン・アメリカ会議(リマ会議):南北アメリカの連帯を強調
・ ラテンアメリカ諸国との善隣外交(ニカラグア・ハイチからの軍隊撤兵、キューバの完全独立承認、ラテンアメリカ諸国への輸出増加を見込む)

(3)英 トップ
1931 失業者270万
*第2次マクドナルド労働党内閣(1929-31)
・失業保険費削減(10%)のため労働党は反対、党首は孤立、辞職

*マクドナルド挙国一致内閣(1931・8-35 自由党・保守党と組む)
・失業保険費削減(10%)を強硬、マクドナルド派は労働党から除名される
1931・9 金本位制停止
1931・10 総選挙:保守・自由・マクドナルド派の圧勝、労働党大敗


ノースカロライナ州の大恐慌の影響

*ブロック経済
・ブロック内は無税または低関税、ブロック外には高関税、排他的な貿易権の形成
1931 ウェストミンスター憲章:英と海外自治領(カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド自由国・ニューファンドランド)は平等、英国王への共通の忠誠、英の市場化を目指す
1931 非常関税法:国内産業保護のため
1932・6 輸入税法(保護関税法):保護関税政策に転換、食料品以外の輸入品に10%、嗜好品など奢侈品に30%の関税
1932夏 オタワ会議(イギリス連邦会議):カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド・インド帝国・南ローデシアが参加 、イギリス連邦内の自治領との経済的結束強化、外国商品の連邦内への進出阻止、経済ブロック(スターリング・ブロック)を形成(オタワ協定)
1933 ロンドン世界経済会議:国連主催、66カ国参加、英への非難
1935 ボールドウィン挙国一致内閣(保守党)

*宥和政策
1937 ネヴィル・チェンバレン挙国一致内閣(保守党)
・輸出の拡大、失業者の減少
・宥和政策
1935 ストレーザ戦線:英仏伊、独の再軍備宣言に対抗
1935・6 英独海軍協定:独の海軍力を対英35%まで保持することを認める
1935秋 伊のエチオピア侵略に対しての経済制裁も石油を除外するという消極的態度
1936・3 独のラインラント進駐に対して、仏の軍事制裁を拒否

(4)仏 トップ
1926-29 ポワンカ レ内閣
・金価格下落、フランの1/5切り下げ、金本位制の維持
・政局不安定(1932-36まで、13の内閣が交代)
・フラン・ブロック(ブロック経済)、小党分立で思い切った恐慌対策をとれず
・「火の十字団(クロワ・ド・フー)」(1933以降組織拡大、ラ・ロック大佐、準軍事的団体)など右翼団体の活動活発化
・スタビスキー汚職事件、右翼勢力の議会政治攻撃
1934・2 連日、右翼のデモ

*ナチス・ドイツへの警戒
1935 仏ソ相互援助条約:独の再軍備宣言への危機感、これを口実に独はロカルノ条約を破棄
・「人民戦線」の結成:社会党と共産党との提携、急進社会党(中間層が基盤)も加わる、反ファシズム勢力の結集
1936・1 「民主的自由の擁護」「平和の擁護」を目標とする綱領
1936 総選挙:人民戦線派圧勝、ブルム(社会党)首相の内閣成立(共産党は閣外協力)
・ファシスト団体の解散、週40時間労働制、有給休暇制、団体交渉権の確立
・フラン平価切り下げ、スペイン内乱を巡る政策、により、人民戦線内部対立
・英とともに不干渉政策(スペイン人民政府に武器輸出禁止)
1935 ストレーザ戦線への参加
1935 仏ソ相互援助条約
・英とともに宥和的態度、ファシズムを押さえきれず


午後マルコムフレイザーは誰ですか?

*反ファシズム統一戦線とコミンテルン
・社会ファシズム論:社会党を社会ファシストとして最大の攻撃目標にする
1935 第7回コミンテルン大会:ファシズムの危険に対して、ブルジョワ政党や中間層を含めての共同戦線を結成すべきことを提唱、「民主主義」擁護のため人民戦線が生まれる

(5)ソ連 トップ
*第1次5カ年計画(1928-32)
・重工業優先、鉄鋼・石油・電力の生産、消費物資は不足、工業都市、銑鉄生産学1000万トン(1933)
・全面的農業集団化、クラーク追放、コルホーズ(集団農場)、ソフホーズ(国営農場)、農業生産25%低下、ウクライナ・北カフカスの飢饉(1923-33)

*第2次5カ年計画(1933-37)
・消費部門の生産、スタハノフ運動(生産性拡大運動)

*第3次5カ年計画(1938-42)
・軍需部門、ウラル・シベリアの開発

*スターリン時代
1936-38 大粛清:秘密警察による、チェカ(非常委員会)を拡大整備した国家保安局、党・政府・軍の大物を逮捕・処刑(1934第17回党大会参加者1180/1695、同大会で選出された党中央委員98/139、1937年赤軍の英雄トハチェフスキー元帥ら3名、軍指令官3名、将校5000名、その他非党員・外国の共産党指導者・一般民衆)、独裁者として権力を握る、個人崇拝
1934・12 キーロフ暗殺事件:ジノヴィエフ・カーメネフ・ルイコフ・ブハーリンらを処刑
1936 スターリン憲法制定:連邦会議・民族会議の2院制、18� �以上男女普通選挙
・外相リトヴィノフの平和外交
1933 米承認
1934 国連加盟

<2>ファシズム体制 トップ
*ファシズム体制
・全体主義
・ラテン語ファスケス(斧を束ねたもの、ローマ執政官の権威を示す)、伊語ファショ(結束・団結)
・議会政治、民主政治の否定、極端な国家主義、武力による侵略主義、世論の支持と大衆的基盤、旧中間層(小農民、中小市民)・新中間層(ホワイトカラー、知識人、学生)・婦人・青年の基盤

(1)独 トップ
*ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭
・レーテ運動とドイツ革命の時期、多くの右翼政党も成立
1919 ドイツ労働者党がミュンヘンで成立、ヒトラー入党、25ヶ条綱領(ヴェルサイユ条約反対、再軍備、労働者の救済、マルクス主義撲滅、ユダヤ人根絶、アーリア人� ��の純血など)
1920・3 国家社会主義ドイツ労働者党と改称
1921 ヒトラーが党首となる
1923・11・8 ミュンヘン一揆(ビアホール一揆):軍人ルーデンドルフを擁して右翼政権の樹立を画策、ヒトラー投獄(「我が闘争」を著述、合法路線へと転換)
1930 総選挙:12名から107名に躍進
1932・7 総選挙:230名、SPDを抜いて第1党に
・中産階級、失業者、中小農民が支持:労働組合や共産主義への不安
・国防軍、資本家層など伝統的保守勢力の支持:共産党勢力への恐怖、恐慌対策
・突撃隊(SA):共産党やSPDの政治活動妨害
・親衛隊(SS):準軍事組織


*ヴァイマル共和国の崩壊
・帝政時代の旧勢力が司法・行政・軍事などに残存、保守反動的性格
・弱小政党、連立政権、政党間の離合集散激しい、短命内閣続く
・軍部の政治への影響大
・世界恐慌の影響(1932年工業生産4割減、失業者600万)
1930-32 ヒンデンブルク大統領の非常大権による大統領内閣(ブリューニング、パーペン、シュライヒャーの3内閣、議会少数、議会の同意ない大統領の緊急勅令により成立)
1932 ヒンデンブルク大統領再選:中道政党、社会民主党(SPD)の支持
1932・7 総選挙:230名、社会民主党(SPD)を抜いて第1党に、が、過半数にみたず、ヒトラーは入閣拒否
1932・11 総選挙:196名、大幅議席減、共産 党議席増、資本家がナチス支持にまわる


*ヒトラー政権(ナチス・ドイツ)の成立
1933・1・30 大統領がヒトラーを首相に任命、ヒトラー首相の内閣成立(連立内閣)
・議会解散、総選挙を告示
1933・2・27 国会放火事件により共産党弾圧(共産党員逮捕)
1933・3初 総選挙:ナチス圧勝、第1党に、共産党への投票を無効に、社会民主党(SPD)・労働組合への弾圧
1933・3・23 全権委任法:ヴァイマル憲法停止、ヴァイマル共和国崩壊、以後4年間ヒトラー内閣に独裁権を与える、国会の同意無しに自由に法律を制定する権限を認める(社会民主党SPDのみ反対、国家人民党の支持・中央党の切り崩しにより全議席の2/3を確保)
・一元化成策(政治経済国民生活のあらゆる分野でのナチ化)
・国家秘密警察ゲシュタポ(ヒムラー長官)による反対者の逮捕・処刑・強制収容所送還
1933・5 労働組合解散、労働者はドイツ労働戦線(ナチスの御用組合)に加盟
1933・6 社会民主党(SPD)その他全政党を禁止、1党独裁確立
1933・10 国連脱退
1934・6・30 レーム殺害事件:SA指導者レームおよびSA幹部の粛清、国防軍(ユンカー中心)がSAに反感、それに答えるため
1934・8 ヒンデンブルク大統領、没
・大統領制廃止、国民投票により、総統(フューラー、首相と大統領を兼務)に就任、ドイツ第3帝国の成立
1934 経済政策委員会(ゲーリング長官)、経済4カ年計画に着手:戦時経済体制の確立、軍需産業の活況、ナチスと独占資本との結合
・自動車道路・飛行場・住宅建設などの社会事業、 軍需施設の拡大:失業者対策(1939年30万)
・経済相シャハトのもと、ライヒスバンクから資金調達
・4カ年計画:戦争遂行、自給自足体制の樹立
・ユダヤ人迫害、アーリア人種の優越信仰、アーリア人種の純血を守るためそれ以外の劣等民族の奴隷化、ユダヤ系ドイツ人や反ナチ的ドイツ人の亡命(T・マン、アインシュタイン、フロイト)、ロマ(昔はジプシーと表記されたが、今では彼らの自称ロマと表記する)や身体障害者の迫害
1935 ニュルンベルク法:ユダヤ人の市民権剥奪、公職からの追放、ドイツ人との結婚禁止、財産没収、企業活動禁止、ゲットーへの脅威隔離
1935・1 ザール地方を人民投票で併合
1935・3 再軍備宣言(徴兵制復活、空軍の存在を宣言):ヴェルサイユ条約の軍備条項破棄
1935・4  ストレーザ戦線:英仏伊、「独の条約侵害に対しあらゆる手段を持って対抗する」
1935・6 英独海軍協定:独に対英35%の海軍力を認める(独海軍4倍)
1936・3 独、ラインラント非武装地帯に進駐、ヴェルサイユ条約武装禁止条項とロカルノ条約を一方的に破棄、仏は抗議せず

(2)伊 トップ
1935-37 独への接近
1935・10 エチオピア侵略開始、エチオピア皇帝ハイレ・セラシュ1世は国連に提訴、国連の経済制裁(武器や重要物資の禁輸、石油除外)、独英仏は伊侵略阻止の決意無し
1936・5 エチオピア併合
1937・12 国連脱退



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